日本の歴史で、645年といえば「大化の改新」、それに続いて701年には「大宝律令の完成」です。これらは、古代において中央(都)から地方へと連なる国家の形が整った歴史的なエポックです。
その頃の地方組織が、国、郡、里(郷)です。古代の川崎のエリアは、武蔵の国の「橘樹郡(たちばなぐん)」と重なります。その郡の役所を、「郡衙(ぐんが)」といいます。
川崎市のほぼ中央に位置する高津区千年・野川に、この「橘樹郡衙遺跡」があります。さらに近くにある「影向寺(ようごうじ)遺跡」、周辺の遺跡を含めて「橘樹官衙遺跡群」と呼んでいます。
この「橘樹官衙遺跡群」が今年3月に、国指定史跡として正式に指定されました。
昔の役所の史跡の何がすごいのか、と思う人もいるかもしれません。ところが、その当時の郡役所は豪壮な建物であったと思われます。さらに、その周辺には「正倉」と呼ばれる高床式の倉庫群や役人の館などが建ち並んでいたのです。影向寺には聳え立つ塔があったと推測されます。周辺の一般の住民たちは、竪穴式の掘っ立て小屋のような住居に住んでいた頃です。その頃、「官衙」の建物群は、現在のスカイツリーや超高層ビル群以上にきらびやかに映ったことでしょう。そこで働く役人達も瀟洒な衣装をまとった貴人と映ったのかもしれません。富と権力の象徴ともいえる建造物群は、時には、住民たちを敵から守ってくれる砦の役割も果たしていたことでしょう。
「官衙」には、農民たちから税として、米や特産品が集められ、遠い奈良の都に向けて送り届けられたといいます。おそらく人々は都の壮麗な宮殿や天皇や貴族などと、この官衙を二重写しに見ていたのでしょう。つまり、最新の文化が行き交うまちの拠点でもあったのだと思います。
川崎の歴史というと、日本の産業発展を支えた近代史に目が向きがちですが、実は、1300年もの古代からの歴史が今に伝えられているのです。
今回の国史跡指定を契機に、さらに発掘調査や遺跡の展示なども進めていくことになります。現在は、遺跡は広場や住宅地の下に眠っている状態ですが、その場に行って、想像力をたくましくして、1300年のロマンに思いをはせてみてはどうでしょうか。近くの影向寺や野川神社などを一回りしても1時間程度のちょうどよい散策コースです。